トピックス-13



vol.3

定期検診で「胆のうに9mmのポリープがある」と診断され大阪中央区扇町にある北野病院で再度検査(エコーとCT)を行い胆のうに2cm、肝臓にもポリープがあるとのことで内科から外科に回され、検査(闘病記vol.1)手術(闘病記vol.2)が必要とのことで入院。そして退院と順調にいったかのようにみえたが・・・その後を息子による手記と記録(2002年10月4日〜2002年10月28日)を「闘病記vol.3」として記載したものです。

緊急入院編-(上)

2002年10月4日 〜父が倒れた日〜 

 幼い頃、無理から父に連れられてやったキャッチボールは嫌だった。 あるいは、父子で遊んでいても、最後は父が一人熱中するいつものパターンが特に嫌だった記憶がある。

 小さい時の私にとって父は苦手な存在であり、もしかしたら父にとっても、私はやりにくい相手だったのかもしれない。 父は休日も留守がちだった。仕事一徹の人で、何日も世間で言う午前様を繰り返していたし、まともに病気らしい病気をした姿も見た事が無かった。

たまに、泥酔に近い酔い方をしているのを幼心に記憶しているが、それくらいの事で、生真面目な父は、最近になって大人の思考という奴を少しは身に付けだした私としては、幼少時と変わって尊敬するようになった。

 少なくとも、社会人としての目標にしようと思った。 そんな父が大きな病を患った。

 要するに定期検診で発見された胆嚢のポリープとか何とか……。難解な手術だったらしいが、それすらも順調に克服し、退院して帰宅したのだ。

 常々から我が母の口癖だった言葉がある。

「お父さんは不死身なのよ」

 という奴である。私もあながち、その言葉を信じていた。何しろ色々あったが、手術を成功させて、経過も順調。こうして自宅に帰ってきた父が目の前にいると、そう思わずにはいられなかった。

 2002年の10月4日。私はそういう意味で、安心しきっていたのだと思う。

 その朝。

 退院後、父が日課の様に出かけていた散歩から帰ったのが、九時ごろだったと記憶している。その日の私はというと、徹夜明けという事もあって午前11時までは寝る予定だった。眠りに就く直前の、散歩から帰ってきてすぐの父が鼻歌を歌っていたのが最後の記憶だ。それから後は何も無い。ただ、早く寝たいという気持ちでいっぱいだった。11時までは時間が無いから……。

 次の瞬間に目が覚めたのは12時を過ぎたころで、父の咳き込む声で意識がはっきりとした。はじめは二、三度の咳きを、次に激しく嘔吐する様な、最後にはそれがごちゃ混ぜに入り混じったような。

 口にした昼食を、父が吐いているのだと最初は思った。何しろ父は、病み上がりでそう食事を多量に取れる状態ではなかったのだから、ああ、昼食を食べ過ぎたのかな、それくらいに思った。すぐに激しい咳きと嘔吐は止んだ。やはりトイレか洗面台で吐いたのだろうと当たりをつけて、白状にも私はその時まで目をつぶっていたのを記憶している。

 再びの激しい嘔吐の音。私は目をこすって目覚ましをのぞいて、それから続きざまの嘔吐に不信感を抱いた。何しろ体中の息を吐き出しても尚、嘔吐を続けるような父の声。これはただ事ではないと、布団を跳ね上げて飛び起きた。それでもおそるおそる、ドアを開けて廊下を覗く。

 床に転がって、水溜りの中にいる父を見た。

13:40時頃、父は吐血の模様。意識は有るものの状況把握は出来ていないらしい。

 水溜りというのは、よくよく見ると血とゼリー状の何かで、急ぎ自室を飛び出して父の元へ駆け寄った。

 廊下の、洗面所とトイレの間に父は倒れていた。トイレの戸は開いていて、ちょうど玄関向きに倒れていた。顔は開きかけたトイレの戸の中に入っていた事から、父は恐らくここまで嘔吐を我慢していたものと推測した。昼寝をしていて、父の異変に気付かなかった自分を嫌悪した。今日、一度目の失態だった。

「どうしたの、大丈夫?」

この問に対し父は、自身把握できていない様子であった。

「苦しい、何があったのか? どうなっているんだ、いったい」

「何処が痛いの?」と食い下がると「腰が痛い、助けてくれ」と言う父。要領を得ないので、喋れるのだから取りあえずは置きあがらせようと努力したが、体が協力的でない父は、私一人では起き上がらせる事もせめて半身を起こす事も出来なかった。とても手におえない。

相当いけないらしいので、すぐに救急車を呼ぶ事にする。

受話器を手にとって、119番をプッシュした。救急車を呼ぶのはこれが始めてだったが、以外に冷静だった。ただ正直、連絡した時間についてははっきり覚えていない。

先ず、父が吐血して倒れた事。今尚、嘔吐している事。自宅の住所と名前を告げた。相手は電話番号を確認してきた。それから、救急車が到着するまで呼吸を確保する様に指示し、上向きに寝かせる様いってきた。

一度電話を切って父の状態を確認し、無理から体を上向きにする。

「腰が痛い、この方が楽だ。放っておいてくれ」

 と抵抗され、すぐに横向きに戻ってしまった。

それから母に連絡した。呼び出し音がしばらく続き、それから母の声がした。

「何どうしたの?」

「父さんが倒れた、北野病院に行く」

 それだけ言って、一方的に受話器を置いた。この時の時間は、自宅の時計で五十分過ぎだったはずだ。

13:50時頃、救急車に電話、母にも連絡をとる。意識は良好なるも、父の苦しみは以前に比べ増大。殺してくれと懇願。

父は再び吐血した。

 吐血しながら、父はタオルを持って来いと言った。すぐにタオルを渡したが、どうやらこれも失敗だった。父は口中をぬぐってしまって、吐血した後を消してしまったのだから。

「大丈夫か、いま救急車を読んだ」

「痛い、苦しい。お母さんは?」

「お母さんはここには居ない。直接、病院へ向かっている」

「ここは何処だ?」

「もちろん家だ」

「どうしてこんな事になったのだろう…(咳き)…苦しい」

「サイレンが遠くで聞こえる。もうすぐ救急車が来る」

「苦しい、殺してくれ」

 以上のような問答を繰り返した。一番驚いたのは殺してくれと懇願する事で、それまでの一瞬が、これ以降長い長い時間へと変わってしまった。それほど痛かったのだろうが、あまりに悲惨で、救急車が到着するのが遅く感じた。

 サイレンが近づいてぴたりと止んだが、いつまでたっても救急隊員が来ない。それで部屋から飛び出してマンションと共同玄関まで駆けたら、住人達が何事かと出て来ていた。

 救急隊員を急ぎ見つけて、自室まで引っ張ってきた。救急隊員は開口一番にこう言った。

「こりゃひどい」

 手早く状態の確認をしているらしいが、私としては見ていてじれったかった。

「名前は、何歳? ふぅん、さん大丈夫?」

 父も痛がりながら言っていたが大丈夫なわけ無いだろう!

「吐血? いや違うと思う。吐いた形跡が無い。この血溜まりは……」

 倒れた時に、頭か何処かを切ったんだろうという。結果論から言えば見当はずれもいとこなのだが、私がタヲルを渡した所為で、その発見が遅れた。後少しで手遅れになるところだったそうだ……。後悔、あとを絶たずだ。

13:55時頃、救急車到着。状態を確認するも原因不明。意識はまだある。

 とにかく、それから時間がかかった。手際が悪いと言うか……。父が暴れるので救急車まで運ぶのは私を含めて四人掛かり。それからも搬送先の病院が決まらず……。

「阪大の救急に搬送します」

 と言う事だった。ここから一番近いとの事。何故か北野病院に電話が繋がらないのでそう言う事になったのだが、あいにく阪大の救急もふさがっているそうだった。

 気付いたら、急いではいた短パンは前後ろ反対だった。ズボンに着替えなくては……。ああ着信履歴が一杯だ、全部母さんだ。また鳴っている……。まったくしつこい母との電話の内容は次の通り。

「今忙しい、もう切るがいい?」

「いつになったら北野(病院)に来るの?」

「北野はつながらない。阪大の救急へ行く、ここから一番近い」

「駄目だ。すでに北野に連絡を入れた。救急チームが待機状態にある」

「え、本当? 分かった隊員にそう伝える」

 この様な内容を救急隊員に伝えると、父が以前に入院していた北野病院の診察券を持って来る様、言われた。

「何れにせよ病院までもうもたないので、救急センターへ運びます」

 そう言う事になった。応急処置が、救急隊員だけでは出来ないのか、役立たずどもめ。

 野次馬が集まる。人の気も知らないで、笑ってやがる。あ、管理人だ。幼稚園児に引率の先生か。何か平和だな世間は。太陽が熱いや……。

さんが倒れた? 嘘、つい昨日は車を運転してたよ」

 管理人が心配そうに言ったのを、私は鮮明に記憶している。退院して数日も無いというのに、父の考えが理解できなかった。汗をぬぐって、手を見るとベットリと血がついていた。良く見るとTシャツも血だらけだった。

 何て事だ。

14:10時頃、自宅出発。かなりもたついている。千里の救急センターに急行。

 救急車が動き出して、とにかく父は暴れた。酸素マスクを必要とするほどに危機的状況下に遇ったが、父はマスクを食いちぎり、助けてくれと叫び上げ隊員を困らせた。私自身も、手足を抑える様に隊員から命ぜられ、隊員共々に殴る蹴るの暴行を父から食らった。その後、父は気絶した。

14:15時頃、千里救急治療センター到着。ドクターカーとドッキング。

 私はというと救急車から追い出され、太い注射器を持った医者や看護婦が何事かを始めた。父はというと、拘束儀ではがいじめ状態となっていて、馬乗りに医者が輸血らしき事をしていた。殺してくれとか、何をするんだとか息巻いていたけれど、注射をしたら直ぐに大人しくなった。

 再三の母の電話が続いていた。頭に来て電話先で怒鳴った。

「何で電話をする!」

あんたこそ何故来ないの!」

「救急センターに来ている」

「北野に来いと言った筈だ」

「急を要したから仕方が無かった」

「何故いつまでも来ないの!」

「病院まで持たなかったからだよ!」

 それからずいぶんかかった後、吸ったもんだの末の北野病院行きが知らされた。

14:25頃、父はドクターカーで北野病院へ。意識は時折回復するも、状況判断は難しい模様だ。私は後続の救急車で追跡。

 私達のほかにも、北野へ向かう救急車があるらしい。北野病院へ来てみると、救急車が搬入口でにぎわっていた。母と、担当医の先生が目に入った。再び救急車から放り出されて、その後は半狂乱の母につかまった。記憶を掘り返しながら状況を伝えた。

14:45頃、正確な時刻は解らないが北野病院へ到着。主治医の先生が待機していた模様

「何がどうなっているのか?」

「知らない」

 母の質問に私はしどろもどろ。

「状況を、具体的に」

「床中が血だらけだったから、倒れて何処か切ったか吐血したか」

「大丈夫なのか」

「解らない」

「解らないでは良心が無い」

 母はやはり取り乱していて、まったく要領を得ない状況だった。それから救急病棟だろうか、そこの待合室で長らく待機していた。その間に祖母と、叔父夫婦に連絡をいれた。

 どうも出血多量らしく、輸血ののサインを求められた。その他諸々の書類にもサインを記入する。程なくして、連絡をいれておいた叔父合流して、医者からの状況説明があった。

14:30頃、合流した叔父を交えて様態の説明。胃か十二指腸からの出血が確認。原因不明。内視鏡では出血個所の特定は出来ず。

 医者は次の様に告げた。

「正確な出血個所が、内視鏡では特定できない。体の中は血だらけだ。」

 この段階での選択種は二つしかなかった。出血する十二指腸付近の血管を絶ちきるか、もしくは自然に血が止まるのを待つか――という事らしい。血管造映の方法で、静脈だか動脈だかに栓をして、血を内臓にやらないようにするのが唯一の効果的な処置方法で、

「一時的に、すい臓や肝臓機能が低下する。いろいろと弊害の出る可能性が有る」

というリスクを伴なった。

「だからといって、事実上は選択が無いのでは?」

「そういう事になる」

 叔父の質問に対し、救急の責任者らしい医者はそう言って、さらに続けた。

「はっきり言って、助かるかどうかきわどいねぇ」

私達家族は、絶句してしまった。

                 (つづく)

続く

今流れてる曲は入院中に看護婦さんの為に作詞・作曲・編曲した「忍恋」です。
デュエットで歌える演歌風にまとめてみました。

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